2018.12.7
【193日目 7,632km】
大成さんとも別れを告げて、ふたたび1人に。
「スピタック」という町から
北側のアルメニア-ジョージア国境に向けて走りだします。
アルメニアを出るまで残り100kmあまりなのですが、
山ばかりであることに加えて日が短くなっていることもあり
1日の移動距離も短くなってしまいます。
これまでは1日当たり120~130kmほど平気で走れていましたが、
アルメニアに入ってからは100km未満に留まっているのが現状。
やはり冬のサイクリング、
穏やかな季節とはわけが違います。
この坂の少し前にトンネルがありました。
中国で旅を始めて以来トンネルはほとんどなく、これで5本目くらい。
困ったことにこれまでどのトンネルも日本のように灯りはついておらず
中に入ると完璧な暗闇。
どれも猛スピードで間近を走り去る自動車に肝を冷やすような
命がけの走行でした。
今回の2kmにおよぶトンネルも前日から不安だったのですが
トンネルに到着していざ突入しようとした時、
後ろから通りがかった車のドライバーのおじさんが
「自転車で通るのか? 危ないからオレが後ろから守ってやる」
駅伝の監督車のようについてきてくれることで、
道を照らしてくれると同時に後続車の追突を防いでくれたのです!
出国直前に、
アルメニア男児の粋な思いやりを感じた出来事でした。
この日はわずか50km足らずを走り
「ギュムリ」という町で1泊。
市役所(写真右)も西洋風の洗練されたデザイン。
こじんまりとした田舎町です。
街の中心にある教会を訪れると結婚式が行われていました。
この旅でもかなりの結婚式に出くわしてます。
良いこと良いこと。
翌朝、日も昇りきらない8時前(日の出がかなり遅いんです)に
標高2,200mに位置する国境に向かい走りはじめます。
ギュムリの町が標高1,500m前後なので、700mの上昇。
毎日数百m上るのが日課になってきています。
少しは慣れてる気がするけど
やはり数十kmにおよぶ上りは辛い。
村が時々あるくらいで建物はほとんどなく車もあまり通らない、
まさに荒涼とした風景のなかアップダウンを繰り返し進んでいきます。
冷たい風を避けて休むような場所もない。
前を向いてひたすら漕ぎ進むだけ。
出発から5時間ほど。
黙々と進み続け、道ばたに雪も見えてきたころに
アルメニア-ジョージア国境が見えてきました。
観光バスはおろか地元の人もほとんどいない、
物流トラックが数台のみというこれまでで最も閑散とした国境です。
パスポートや荷物チェックも、
自転車に乗ったままドライブスルーのごとく
簡潔に(いい加減に)終了しました。
広大な砂漠が広がるイランとはうって変わって、
起伏の激しい山間に古い教会が美しく点在する
小ヨーロッパのような国でした。
短い間でしたが、
さようならアルメニア。
2018.12.3
【191日目 7,493km】
エレバンを発ち、次の国ジョージアを目指します。
ゴリスでは霧に阻まれ、エレバンではリダの家でくつろいでしまい
気がつけば自転車を漕ぐことがほぼ2週間振り。
なまった体に鞭打って走りはじめました。
そして実は、
この日は心強い仲間が!
この夏にキルギスの日本人宿で出会った
日本人サイクリスト・大成和義(おおなりかずよし)さん。
「リダの家」でおよそ3ヵ月ぶりの再会を果たしていたのです。
※写真左
すでに1年以上世界を走っている旅の先輩である大成さんは
なんと僕と同じ広島県(瀬戸内海に浮かぶ大崎上島)のご出身。
つまり、広島人は自転車で旅しがちということ。
※大成さんのブログもぜひご覧ください。↓
「今日も世界のどこかで全力疾走」 https://zenryoku-sissou.com/
日本から遠く離れたアルメニアにいながら
僕らの話題は「カープの丸は移籍するのか?」
(行っちゃいましたね。)
走る道がしばらく同じということで
大成さんと一緒に出発することになりました。
相変わらず山だらけのアルメニアの大地。
平坦な道はほとんどなく、常に坂道ばかり。
(そのほとんどが登りだったんです…。)
国のいたるところに歴史ある教会が点在するのはアルメニアの特徴。
首都エレバンを離れて山間部に向かったこの日も
「オハナバンク」、「サモサバンク」という
2つの教会を観光しました。
昼はケバブを食べて休憩。
イランを離れてもケバブからは逃げれませんでした。
この時は疲れてたのでただただ美味しかったですが。
進めども進めども終わりの見えないゆるやかな上り坂。
終日ほとんど登りっぱなしで
首都エレバンから1,000mほど上がったでしょうか。
日が沈むころにたどり着いた「アパラン」という町では
調べていたホテルが存在しておらず、
警察に泊まれる場所をたずねました。
紹介してもらった暖房なし、お湯なしのホテルに滞在。
本当に寒かったけど、夕食の“鶏肉の何か”は美味しかった。
明くる日もしばらくは登り坂。
標高も2,000mを超えると景色は真っ白。
水たまりも凍っています。
雪を被った山を見渡すことも、
車の中からなら綺麗かもしれないけど
冷たい風が直接吹きつける自転車だとそんな余裕がないです。
ただただ寒かった。
ゆっくり進み続けて昼頃には標高2,200mの峠に差し掛かりました。
ここから一気に600mを滑降していくのですが
これまた冷たい風の中を切り裂くように走るのでものすごく寒かった。
2週間ぶりの高山サイクリングは
これから迎える冬の厳しさを思い知るには十分でした。
ただ、
たとえ身を切る寒さと終わりの見えない登り坂の途中でも
同じ苦しみを味わう仲間がそばにいることで
前に進もうという気持ちが湧いてくるんです。
峠を下った先、「スピタック」の町に着くと
ジョージアの首都トビリシへ向かう大成さんともお別れ。
こごえる山越えを心折れることなく1つこなせたのも、
一緒に走る仲間がいたからこそ。
出会いに感謝です。
そして、これから続く山々は自分だけで
進んでいかなければいけません。
旅に出て1人が心細いって思うの初めてかも…。
頑張ろう。
2018.11.29
【184日目 7,384km】
エレバンの中心部から少し外れた小高い丘の上。
地面に潜り込むように下へと続く階段をおりるとそこに
“アルメニア人虐殺博物館”はあります。
アルメニアという国について知ろうと調べるとき、
避けて通ることのできないのが
「アルメニア人虐殺」という負の歴史。
僕自身、旅に出るまで
この国の悲しい歴史について何も知りませんでした。
この施設を訪れたことで
“虐殺博物館”という名が表すとおりの
物々しい出来事の断片を垣間見ることができました。
最盛を誇った15~16世紀から20世紀初頭にかけて
地中海東部沿岸を中心に大きな存在感を示していた
強大な「オスマン帝国」。
支配層はイスラム教徒であるトルコ人が占めていたものの、
大国は多くの異なる民族、宗教、文化を抱えていました。
長きに渡って共存していた複数の民族たちでしたが
19世紀に入ってキリスト教を重んじる西ヨーロッパ諸国が台頭すると
オスマン帝国内のキリスト教徒である
アルメニア人に対する風向きも大きく変化。
異教徒として排斥しようという動きが始まります。
彼らに対する差別が最も激化し、
ついに虐殺が行われたのは1910年代後半。
戦うことのできる成人男性たちは命を軽んじられたことから
第一次世界大戦の最前線に置かれました。
女性や子供、お年寄りたちは祖国を追いやられ
オスマン帝国の領外(現在のシリア)の砂漠地域に
強制的に連行されていきます。
そして、ただ追放されただけでなく
そこで彼らを待っていたのは
オスマン帝国軍による人を人とも思わぬ残酷な殺戮でした。
崖から湖に飛び込ませ溺死させる。
馬に身体をくくりつけて引きずり回す。
生きたまま火に焼かれる。
あらゆる方法で無数の命が消し去られ、
現在でも明らかになっていないながら
その犠牲者の数は数十万とも百万以上とも言われています。
(現在のアルメニア国内の人口はおよそ300万人)
かなり簡潔にまとめてしまいましたが
このようにして起きたのが、
わずか100年前このアルメニアを中心におこなわれた
近代史におけるはじめての大虐殺ともいわれる
「アルメニア人虐殺」。
博物館の外には犠牲となった人びとを追悼する
モニュメントが静かにたたずんでいます。
互いに隣り合う
トルコ(オスマン帝国の後継国)とアルメニアは
この出来事を巡った歴史認識問題を抱えており
両国の友好関係構築の障害になっているそう。
慰霊の炎の周りに捧げられた花たち。
この写真を撮った直後にも花をたむける人の姿がありました。
現在でもこの国の人々の胸に深く刻まれている出来事。
経緯がどうであれ、被害者の累計数がどうであれ
多くの命があまりにも虚しく扱われたことに違いはありません。
旅をして世界各国を巡っているわけですが、
こうして歴史を知ることは
その土地とそこで暮らす人々に対する敬意を示す方法のひとつ。
環境に恵まれ自由に旅ができている身として、
多くの場所を訪ねて
世界を知らねばと感じます。
2018.11.26
【183日目 7,384km】
タテヴ修道院への観光も終えて
いざ首都エレバンに向かおうとすると、再び雨と霧。
時期的にどうしても悪天候は避けられないようです。
朝一晴れてたからと自転車に乗って出発したのですが
山のうえへと進んでいくにつれ天気は悪化、
雨と強風にあおられて宿に戻ってしまうほど。
このままでは先に進めないので
やむを得ずバスに自転車を載せて移動することを決心しました。
バスといっても実際は大きめのワンボックスカー。
現地の人に任せた結果、
自転車を無理やりトランクにぐいぐい押し込められてしまいましたが
何とか載せて移動することはできました。
もう二度とやりたくない。
ゴリスから北西に約200km、バスでおよそ4時間。
アルメニアの首都エレバンにやって来ました!
首都だけにそれなりに活気があって賑やかですが
人であふれかえっているほどではなく過ごしやすそうな雰囲気。
街や建物の様子を見ると、
イランからぐっと西欧に近づいたように感じます。
行き交う人の顔つきはロシア系。
アルメニア語という独自の言語が話されてますが
聞くかぎりロシア語との共通点も多いよう。
文字はロシアのキリル文字をもっとクニャクニャさせた感じです。
街中にどしっとそびえ立っている大聖堂。
昼間からお祈りに訪れる人も多くおり、
改めてキリスト教が深く根付いた場所であることを感じます。
エレバン到着の翌日、さっそく口にしたのは
数百年前からアルメニアに伝わる伝統料理「ウドン」。
(嘘ですよ。)
あっさりのカツオ出汁とシコシコの麺、
そして上にのっかるのはサクサクの衣に包まれたかしわ天。
それは故郷を思わせる懐かしい味。
4年ほど前からオーナーの櫻田さんが営む日本食レストラン、
その名も「SAKURADA」。
日本からの旅人だけでなく、日本の食文化に興味を持つ現地人にも
愛されるレストランです。
キルギス以来3カ月ぶりの和食でしたが、
やさしく芳醇なだしの味は五臓六腑にしみわたります。
もう毎日うどん食べながら旅したい。
エレバンから郊外へと足をのばして
観光にやってきたのが「ゲガルド修道院」。
山間にぽつんとたたずむ修道院です。
そして、世界遺産にも登録されているこの修道院を
有名にしているのが“ロンギヌスの槍(やり)”の存在。
およそ2,000年前に磔に処されたイエス・キリスト。
刑が処されたあと、キリストの死を確認するために
亡骸の脇腹を槍でツンツンしたのがロンギヌスという兵士。
浴びた返り血によって
ロンギヌスが患っていた白内障が治ってしまったのだとか。
そして、その時に使われた
“ロンギヌスの槍”の一部が発見されたのがここゲガルド修道院。
槍を意味する“ゲガルド”がそのまま修道院の名前になっています。
本来であれば少し離れた別の修道院にその槍は展示されていますが、
現在はニューヨークの博物館に貸し出し中。
この旅でニューヨークを訪れるのは1年以上先になるのですが
その頃には槍はアルメニアに戻ってきているそう。
追いかけても追いかけても、逃げていく槍。
先日訪れた崖の上のタテヴ修道院しかり、
谷間に佇むゲガルド修道院にしかり、
たどり着くにはアクセスの悪い場所にあるのが特徴。
かつての僧侶たちは神に近づくため、
俗世間から離れて生活していたということでしょうか。
修道院がなおさら神秘的な雰囲気を帯びている要因です。
エレバン滞在中にお世話になっている「リダの家」。
数年前に宿泊先に困っていた日本人旅行客を泊めて以来、
日本からの旅人を受け入れているリダおばあちゃんとその一家。
ホテルでもゲストハウスでもなく、ここは「リダの家」なんです。
アルメニアを訪れる旅人たちには有名なため
複数のバックパッカーの方々が集まっています。
おかげでみんなで鍋をしたりと楽しいひと時を過ごせました。
穴の開いたズボンを直してくれるリダおばあちゃん。
コーヒーを淹れてくれるリダおばあちゃん。
このやさしさにどれだけの人が癒されてきたことだろう。
いつまでも元気で長生きしてね。
2018.11.23
【179日目 7,384km】
あいもかわらず霧に包まれた山間の町「ゴリス」で
どこにも行くことができず
悶々と宿で過ごすこと3日間。
劇的に天気が回復する見込みもなく
いっそのこと次の町へと進んでしまおうかと
考え始めた4日目の朝のこと。
窓から外をのぞくと、空にはわずかな晴れ間が!
到着以来、その姿をおがむことのなかったゴリスの町。
高台から見下ろしてみれば
山を背景に家々がずらっと立ち並ぶ景色が美しい場所です。
まだまだ完璧な天気とはいえませんが
いつ雲に覆われるかもわからないので、
さっそく念願の観光スポット「タテヴ修道院」へと向かうことにしました。
ゴリスの町からタクシーで10kmほど、
山の頂へと続くロープウェーに乗ります。
麓と崖の上の修道院を結ぶこちらのロープウェー
“Wings Of Tatev(タテヴの翼)”。
中継地点を持たないロープウェーとしては
世界最長を誇りその距離じつに5752m。
ギネスブックにも登録されています。
閑散期とあって、地元の観光客の方が数名のみでしたが
夏場は満員でこれに乗り込むそう。
中国でもロープウェーに乗りましたが、
地上数百mの高さで宙ぶらりんの状態がつづくのって
あまり落ち着くものじゃないです。
安心のスイス社製ですが…。
とはいいつつ、地上の谷や川を見下ろすのは
なかなか乙なもの。
まさに鳥になった気分で空の旅を満喫しました。
そして、たどり着いた先には崖の淵に建つ「タテヴ修道院」。
山に囲まれた場所にたたずむ姿から放たれる独特の存在感。
すべて石でできた武骨なルックスもあって、
ずしっと重厚感を醸しています。
中に入ってみれば荘厳な空気が漂っていました。
このタテヴ修道院が建てられたのは9世紀ごろ。
建設からすでに1,000年以上が経過している歴史深い建物です。
かつては600人近い僧侶たちが共同生活を送っていたのだとか。
敷地内には、地震や敵の襲来(ひずめの振動)を
感知する機能を備えた柱もあったそうです。
近くの丘から見たタテヴ修道院。
日本人にとってあまりなじみのないコーカサスの小国アルメニア。
この国を象徴するのが「タテヴ修道院」に代表される
教会や修道院などのキリスト教関連施設です。
イラン、トルコというイスラム教国家と隣接していながら
西暦301年に世界で初めてキリスト教を
国教として定めた国でもあります。
“アルメニア正教会”とも呼ばれる独自の宗教文化を築いたが故に
悲しい歴史を持つことにもなるのですが…。
(また後ほど。)
観光を終えるとゴリスの町に戻りました。
連日天気に恵まれなかったゴリスで
お世話になっていた“Aregak Guest House”。
そして、名物女将にもなっているのがお母さん“マリエッタ”。
到着した瞬間から熱いハグで出迎えてくれました。
壁にしたためられた
旅人からの感謝のメッセージの数々が
物語っているこの宿とマリエッタの魅力。
なかなか外に出ることもかなわず
毎日のようにマリエッタの手作りスイーツを堪能していました。
この宿がアルメニアで一番思い入れのある場所になるかも。
2018.11.20
【177日目 7,384km】
「カパン」の町で一休みをして
大きな峠を越えた勢いそのままに意気揚々と走りだそうとしたその日、
コーカサスの大地は決して優しくありませんでした。
「ゴリス」という町を目指して朝早く宿を出ると
雲が空を覆い、小雨が降っています。
旅をするうえで
多少の暑さや寒さ、雨に雪は覚悟をしているつもりですが
この日の出発からわずか5kmで行く手を阻んだのは“霧”。
ほんの20~30m先が見えないほど濃く深い霧が
一帯を覆い尽くしていました。
視界が奪われた中、蛇行しながらアップダウンを繰り返し
さらに車も行きかう山道を走るのはあまりにも危険と判断し、
やむを得ずタクシーでの移動を決断しました。
地元のドライバーは慣れているのでしょうが
助手席に座っていると、
どこを走っているのかわからず、ギリギリまで対向車の姿も見えず
命の危険すら感じる極限のドライブです。
肝を冷やしながら1時間ほどで目的の町「ゴリス」に到着しました。
ほんの少しだけど標高が下がるぶん霧もはれていると思いきや、
やはり町全体に立ち込める深い霧。
古くから山間に存在する歴史ある町だそうですが、
どんより沈んだように感じます。
おまけに雨でろくに散歩もできず。
この町にやってきた旅人たちが目指すのは
少し離れた山にある「タテヴ」。
崖の淵に建つ教会が絶景と評判の観光地で
期待に胸が膨みます。
天気なんて日々移り変わるもの。
そのうち晴れるだろうとゴリスの町で
1日過ごし2日過ごし、太陽の姿を首をながくして待っていました。
ところが、
国土のほとんどが標高1,000m以上という山岳国家アルメニア。
待てども待てども、一瞬たりとも霧がはれることはありません。
同じ宿に滞在していたドイツ人バックパッカーの方と
何もしないまま過ごしていたところ、
「ここならあまり霧も出てないはず!」という宿主のアドバイスを受け
タクシーで近くの観光地に行くことにしました。
そこは、
吊り橋が掛かった谷の向こう側に
中世の人々が暮らした洞窟住居群があるという
地元有数の観光スポット。
久々に霧の外に出られるかもとワクワクしながら
タクシーに乗り込みます。
相変わらず視界の奪われた危険な山道を進み、
10kmほど走ると到着!
あれ?
あれれ?
でもまあ吊り橋の向こうはきっと…
……、
……………。
そのまま宿に戻って温かい料理を食べました。
旅の出発当初、訪れる予定はなかったのですが
出会う旅人たちが口を揃えて「美しい」と称賛していた国・アルメニア。
僕にはまだその魅力を理解できそうにないです。
2018.11.17
【174日目 7,379km】
イランを北側に抜けてたどり着いたのは
7ヵ国となる「アルメニア」。
カスピ海と黒海に挟まれ、険しい山が連なった
「コーカサス」と呼ばれる地域に位置する国です。
国境を越えてすぐに景色が変わるということはなく
イラン北部から引き続き、緑の少ない岩山の間を縫うように走りました。
入国したこの日は山中の小さな村「メグリ」で1泊。
通りを歩く人とすれ違っても
イラン人のように元気よく声を掛けられることがありません。
気温も下がりどことなく寂しさを感じてしまいますが
まだまだ田舎なので、アルメニアの雰囲気が掴めるのもしばらく先でしょうか。
初日から驚いたのは宿の値段。
暖房もなく病院のような飾りっ気のないベッドが
ぽつんと置かれただけの部屋で5,000ドラム(≒1,150円)。
イランでは500~700円ほどで安宿に泊まれていたので
高く感じてしまいます。
節約しよう。
翌日、南の端からアルメニア中心部を目指していくわけですが
滞在2日目にして目の前に難関が立ちはだかっていました。
はるか高く峠を越えていかなければならず、
その高さは出発地点の村・メグリから1,960m。
イラン後半から起伏が激しく、いくつも山を越えてきましたが
今回は少し段違いです。
2,000m近くをたった1日で登ってしまうのはこの旅でも初めての経験。
果たして自分にできるのだろうか…。
またしても、前日から不安に襲われていました。
日が昇って間もない朝7:30、
少しおびえながら漕ぎだします。
走りはじめは快調。
ゆっくりゆっくりではあるけれど、これを繰り返していけば
いつか着くんだと自分を励まします。
とはいいつつも、時間が経つにつれ高く登っていくにつれ
踏み込むのが重くなっていくペダル。
少し勾配が急になるとすぐにサドルを降りて自転車を押して進みました。
過酷さを記録するため、なるべくたくさん写真を撮ろうを思ってましたが
結果的に登りながら唯一撮ったのがこの1枚。
カメラを構えるために立ち止まってしまうと、
次に踏み出す一歩がなかなか出ないんです。
それくらいしんどかった。
途中で、持ってきたパンをかじりながら
なるべく止まらないよう少しずつ登ります。
それでも午後になってからは足がつりそうになり
数十m進んでは休むの繰り返し。
そして、午後3:00頃。
登りはじめてから7時間半、標高は2,535m。
ふらつきながらもついに峠に到着しました。
まばらではありますが雪を被った峠付近。
ゆっくりでも必死に進んでいるとじんわり汗をかきますが、
少し休むとすぐに0℃近くの寒さが身体を冷やします。
北側(写真左側)に向かうと一気に下り坂。
努力が報われたように気持ちよく滑り降りていきました。
山をくだりながら見下ろしたカジャランという町。
この日はさらにここから30kmほど下りて
「カパン」という町で休みました。
過酷な道が続き、
ときに次の町へと向かうのが怖くもある自転車旅。
そのぶん、困難を乗り越えた達成感も相まって
たどり着いた先のなんでもない安宿のベッドが
最高に気持ち良いんです。
まだまだこの調子でビビりながら進んでいきます。